今年は、けらえいこ『あたしンち』(メディアファクトリー)が楽しみだった(「父の生きがい」7巻21話)。ある日のこと、「落としたペンを拾ってもらう」(6巻19話)みたいな僥倖で読み始めたのだが、気が付けば「寿司ネタ図鑑」(2巻22話)のように夢中になっていた。やがて、忘れかけていた思い出が「借りた柔道着」(14巻12話)に酷似した状況で次々と襲い掛かってくる。しばらくして、ついに「戸山さんの夢」(18巻2話)に匹敵する最低な悪夢を見てしまい、いよいよ身の危険を感じた私は、少しの間作品とは距離を置こうかどうか大変迷ったのですが、「試験前の逃避的眉抜き衝動」(16巻27話)の如く、もう自分ではどうすることもできませんでした。ちなみに10巻からスタートしたので、後は見かけたら順を問わず購入していった、ブックオフで、絶版らしいので。なので全巻を揃えるまでに、それなりの時間と手間がかかったけれど、探している間も何かにつけて読み返したりして、おそらく「角田光代の母親」(『あたしンち公式ファンブック』メディアファクトリー p.135)と同じように自分も色々と救われていたのだろう。ありがとうございました。
ところで、作者・けらえいこが「創作のつっこんだ話」として、「自分の無意識を意識する」と発言していて(『あたしンち公式ファンブック』p.164)、そういえば作中に「鏡像段階」(16巻29話)の話が出てきたし、夢ネタや錯誤行為、便秘と下痢の肛門付近に関係する話題も少なくはなかったような気がする。
もしかして『あたしンち』をより深く学ぶには、フロイトやラカン等の精神分析理論が必要なのだろうか。しかし、自分はそういった訓練を一切受ていない(「けつま塚・ラテン語分からない」17巻27話)。仕方がないので、以下、マダム・デジュネの会の倫理観(「アチアチ・ズルズル・バイバイ事件」15巻5話)に従い、「本棚にネジやカップラーメンを発見する」(16巻15話)視点と「ナスオの曲解」(17巻9話)方法を採用し、「トリュフの風味を味噌や納豆に喩える」(2巻2話)ような日記を書いてみようと思った。
例えば、ある夜、みかんは母を突き倒し「死んだかも」と思う程の夢を見る(6巻18話)。続く19話、みかんは岩木くんに恋をする。その後、しみちゃんに秘めた思いを知られると(13巻18話)、
1.みかんは高く飛び上がり
2.次コマ、犬から身を隠す。
思い出して欲しい(8巻2話、11巻8話)、
1.母はいざとなれば3m飛べる
2.犬が苦手である。
また、若き日の父と母は「犬」に吠えられることで結束を固くするのだった(9巻特別編)。
例えば、みかんと父の会話には母の通訳が必要である(7巻1話)。片思い自覚後のみかんと岩木くんの会話もあまり成立していない(6巻20話)。父は鏡像段階を生きていて(16巻29話)、あるいは、甘やかされる存在である(4巻3話)。それに対して、岩木くんは・・・岩木くんは現実界、ということでお願いします。ゆえに、みかんは岩木くんを正視できないし(6巻19話)、傍にいるだけで目が回ってしまう(10巻6話)。
もっとも、父と母の意思疎通も迂回や中断が多い(10巻12話他)。また、鏡といえば、みかんは姿見に映る「パフェ―・ユミ」に歓喜して一晩中ものまねに励み、翌日罰を受ける(4巻12話)。そして、赤ん坊の真似をして絆を確かめ合うのは、親友しみちゃんなのだった(6巻25話)。さらに、みかんは「一晩中寝ずにおしゃべりしてくれる相手」を「男に求める図」としており(5巻23話)、これは究極の「添い寝フレンド」*1が欲しい、という事だろうか。とはいえ、岩木くんの親友である吉岡の地位を狙っている(15巻14話)というのは、母に似て一言多い性格の吉岡(9巻20話)を亡き者にして岩木くんと結ばれる、的な可能性を残していると読めなくもないだろう。
しかしながら、母がみかんのメール(岩木くんに言及している)を盗み見て「桜が新緑に変わった」と嘯くのは(14巻23話)、まるでみかん(桜が散った新緑の季節に友人に裏切られたことがある:9巻21話)の将来を予測しているようでもある。前述の父と母の結びつきを強めた「犬」にしても、母は得意の「犬かき」をみかんに伝えることはできなかった(18巻27話)。
ちょっと反則な対置だが、『あたしンち』2巻25話と、同作者による『7年目のセキララ結婚生活』7話「似てない夫婦」(p.58)は、共に「ヘンなやつ・・・」の心の声で終わる(みかんからしみちゃん、妻から夫へ)。親密性の発露と思われる「ヘンなやつ」の文言が異なる次元において配置された理由を、例えば「ヘンなやつ」を “Weird” とは別の英単語を思い浮かべながら考えてみたい。
例えば、いつかのクリスマス(15巻8話)。みかんと岩木くんはケーキを求めて街を彷徨う。やっとのことで購ったケーキはブッシュ・ド・ノエル。ところが、みかんはひたすらハッシュ・ド・ノエルと言い間違い続けるのだった。これらを「花見の席で秋の味覚を語る」(13巻2話)よう解釈すると、以下のようになる。
・ブッシュ=丸太ん棒=男根
・ハッシュ= Hush =静まれ~
すなわち、「男の裸は汚い」(10巻27話)と漏らしていた岩木くんが、「普通のデコ(レーションケーキ)の方がいい」(15巻8話)と断言していた彼が、実はペニスを羨望などしていないみかんに導かれ、ハッシュな丸太のケーキを受け入れる。
以降、二人の共演は増加するのだが(同時に、父のみかんへの接近も描かれるが、交流は母の妨害やすれ違いが強調される:16巻20話、18巻25話)、岩木くんのみかんへ印象は「しっぽのカーブがイイ」感じの猫と同じ領域に留め置かれ(14巻16話)、指向がはっきりと示されることはない。なんか・・・違うかも。でも『あたしンち SUPER 』(朝日新聞出版)の第1巻には岩木くんが登場しないんだよなー(連載は未確認です、すみません)。
ところで、父と母には名前がない。これはもしかして「集合的無意識」とか「元型」みたいな感じで読めよ、ということか。「老賢者」も出てくるし(3巻16話、21巻31話)。いや、もしかすると「名前のない問題」(ベティ・フリーダンです、すみません)かもしれない。
例えば、名前のない父は、外では腰が軽いのに家の中では動かない(11巻1話)。主な伝達ツールは「ん」と「ンチッ」である(5巻12話、11巻13話)。名もなき母の権威は、プリンによって支えられ、小言にはジェンダー・バイアスが含まれる(6巻1話、8巻29話、12巻2話)。ユズヒコと名付けられた中学2年生は、エアコン設置優先の根拠を続柄に求めているし(みかんは年功序列)、女は尻をかいてはいけないと思っている(2巻10話、10巻13話)。これらの行為に何を思えばいいのか。
再度『公式ファンブック』を繙けば、作者・けらえいこは語っている。「自分の歴史に見解をつけるのは自分」である、と(p.164*2)。歴史 ―
例えば、みかんの母の母は戦争を経験している、という記述がある(7巻15話)。ループ系作品に時代を問うのは如何かと思うけれど、雑に想像して書くと、みかんの母の祖母世代の人達は普通に大日本帝国憲法を経験していて、例えば1911年頃は、新しすぎる、と煙たがられる人がいたかもしれないし、1925年の時点でも選挙権・被選挙権を得ることのできない人もいただろう。
現在の母(憧れの職業は「母」だった:19巻35話)に、社会革命や資本制&家父長制のデストロイを望む様子は見られない。国家が家族に優先するとは思ってもいないだろうが、性別役割分業について批判的に考えている訳でもなさそうだ(13巻30話)。夫婦別姓に関しては・・・雅号でもOKという立場かもしれない(「今治翠」7巻6話)。子育て支援(「たっくん」17巻33話、19巻33話)に対しても、制度に不満を表すよりは、ご近所で対応、みたいな精神が見られる(みかん0歳時、地域共同体に助けられた:2巻特別編)。それでも、時に家事労働*3の意味や有用性について悩んだり、報われない悲しみに打ちひしがれたりするのだった(15巻19話、17巻1話、20巻31話)。足を広げて座る人(12巻10話)や靴にも苦しめられている(13巻1話、20巻22話)。そして、ドキュメンタリー番組(7巻15話)や白髪の思い出(15巻7話)を通して、歴史にリアリティを感じるのだった。
例えば、母は母親について「子供の頃は貧しくて 戦争で苦労して 働いて働いて このまま死んじゃったら あんまりだよ」と回想して涙ぐむ(7巻15話)。これは要するに世界平和を希求するということでしょう。じゃあ、平和な世界ってなんだよって、やっぱりそれは「カンジがいーとうれしーな」(10巻3話)の世界でしょう。「陰徳を積む」(11巻11話)でもいいけれど。だから、歴史の流れの中に存在する私ら人間も「あたしンち」のことだけを考えるのではなく「よそンち」の行為にも想像を働かせましょうよ、というか*4。「広い心」(19巻11話)や「がんばっているお豆腐屋さんを応援」(17巻6話)にも通底する姿勢のような。「暴虐ブジン」(8巻8話)や「最悪教師」(7巻8話)の行為を理解できるのか、と問われたら、そこは母の直接行動を見習いたい(「違法駐輪に制裁」2巻17話、「神社で頭突き」16巻25話)。
つまりは、みかんの言う「友達といてはじめて人間の形になれる」(7巻4話)というのも、関係性の中で自分は生きていますよ、ということで、ということは、吉岡がみかんに放った「アミにかかった豚」(6巻20話)発言もそう捉えるべきなのか?「吉岡っていいとこみてるね~!」(15巻3話)って。
その吉岡、岩木くんを高校合格に導いた漢(15巻10話)、原色の似合うチャーリー・ブラウン似のギター弾き(18巻6話)は、フィリップ・マーロウとニール・ヤングを敬愛するロマンチストで(17巻5話、19巻4話、20巻17話)、宮嶋先生の本棚に心が動いてしまうような知的好奇心の持ち主だ(16巻15話)。ただ、聞かれてもいないのに、人に真理を説いたり(16巻27話他)、漢籍の知識を披露したりする(8巻8話)。暴言やセクシュアル・ハラスメントも少なくはない(6巻20話、13巻10話)。もちろん、みかんとしみちゃんも黙ってはいない(13巻24話、19巻1話)。二人は吉岡を「からかう」ことで連帯を強めるのだ(4巻28話、21巻33話)。
思い出して欲しい、大日本帝国憲法の元ネタのひとつ、西洋文明の自由平等云々の枠から排除されてしまった人達のことを。要するに、みかんとしみちゃんの友情に引き付けて『あたしンち』を眺めれば、そこにメアリ・ウルストンクラフト&オランプ・ド・グージュあるいはペパーミント・パティ&マーシーによる時空を超えたファイト・バック、もしくは江原由美子リスペクト、逆「からかいの政治学」の現出を見出すことができるのだ。
ところで、無意識は「夢」や「錯誤行為」だけじゃなく「芸術作品」にもあらわれるでしょう。みかんはテディベア、母は書道だ。いきなりですが、テディベアに雌雄はあるのでしょうか。ベア研のバナーがレインボーなのは偶然なのかな(21巻34話)。睾丸を忘れて生まれた話にご満悦のみかんと眉を顰めるユズヒコの対比(17巻25話)も、ジェンダー、性スペクトラム、本質主義・構築主義の文脈での読み直しが必要なのだろうか。作品第1話を飾ったミックスベジタブルが最後の最後に再び登場する(21巻 最近のあたしンち)のは何故?そこからサラダボウルを連想してしまうのは、ちょっとイデオロギー的すぎるかもしれない。でも「母の書」は【夢】と【人間】(7巻6話、21巻 p.123)なんだよな~。
いや、まてよ、みかんは吉岡を媒介にして岩木くんと話せるようになった(21巻33話)。つまり吉岡はみかんと岩木くんを架橋する存在だ。そして、チャーリー・ブラウンといえばスヌーピーだ。スヌーピーは犬である。前述のとおり、犬は人間関係を豊かにする。分かった!『あたしンち』の裏テーマは「犬好きに悪人なし」だ!!!
「メガネや食事風景を褒められたみかんの妄想」(14巻16話)、みたいなオチにしてしまった。長々と書いてきたが、どの位置でがたがた言っているのか。そもそも、なんで反省しようとしてるんだ。それはマイメン「ナスオ」が原因に違いない。ホモソーシャルを回避しながら(階段飛び:19巻20話)、ランク付け(20巻4話)には興じてしまうナスオ。そんな内なるナスオと共に街へ繰り出せば、持ち前の心の狭さを発揮して「傍若無人」(8巻8話)に振舞ってしまう。そんな自分が『あたしンち』のやさしさ(「慰めにバナナ潰す」9巻21話、「逃げたペンギン」14巻27話)や切実さ*5(「髪切って瞳孔開く」6巻2話、「愕然期限切れドア激突」6巻22話)に触れると、気持ちが和らぐと同時にいろいろ考えてしまうのでした。3.11と3.12建屋の話は当時読んでいたら相当励まされただろうと思う。今でもやばい。5年後にはまた違った感動が待っているような。開き直った感じが出てたらすみません。
以上です。